盲ろう教育について

盲ろう者とは

 社会福祉法人全国盲ろう者協会では、身体障害者手帳に視覚と聴覚の両方の障害が記載されている人としています。目が不自由な上に、耳も不自由な人たちのことを「盲ろう者」と呼んでいます。あの有名なヘレン・ケラーのような人、と言えばお分かりでしょうか。とホームページに書かれています。

 

 

山梨県における盲ろう教育

 本県における盲ろう教育は、昭和23年当時の本校校長堀江貞尚氏が山梨県下の実態調査を行ったことに始まります。当時、盲学校・ろう学校の義務教育化が実施されましたが、就学状況が把握されておらず、就学率も上がりませんでした。この調査の結果、盲児40人、ろう児190人、盲ろう二重障害児5人を発見しました。4例は重い知的障害と発育不全を併せ有していたため、結果的に教育による効果が期待できると判断された男児1名に家庭訪問による教育を開始しました。その後、神奈川県から女児1名の女児を迎えました。そして、昭和35年には男児1名への実践も始まりました。指導には、多くに困難があったことが記されています。

 

発声練習

担任と生徒

 

  盲ろう児は寄宿舎に入舎し、24時間、専任の寮母によって教室と一体になった指導が行われました。当時を振り返る元担任の文章には「寄宿舎の指導は非常に重要で、むしろ寄宿の指導から子どもの成長発達にともなって、教室の指導が分かれていったのが、初期の実際の道筋でした」とあります。
 この教育は、山梨県教育委員会指定の実験学校及び文部省の9次にわたる指定実験学校として本校だけでなく、東京大学 梅津八三教授(当時)ら多くの関係者の協力のもと心理学的見地から科学的系統的な指導が行われ、大きな成果を上げた国際的にも大変貴重な実践です。

 

梅津八三(うめづはちぞう)教授

大学の先生 校長 寮母 児童

 

本校で行われた「盲ろう教育」実践について、その意義をまとめると次の7つになります。
① 戦後間もない時期に開始されたこと
② 「子どもから学び、子どもに教え、子どもの変化からまた学ぶ」こと
③ ローマ字式指文字を導入したこと
④ 科学的な体系によりコミュニケーション、点字や教科の学習を行ったこと
⑤ 研究者と本校教員及び寮母による共同教育実践であったこと
⑥ 長期的な実践研究であったこと(昭和23年から昭和45年までの20数年)
⑦ 学校と寄宿舎や盲児施設が一体となって指導実践をしたこと

 

  この実践研究に係る2,250点を超える諸資料が、独立行政法人国立特別支援教育総合研究所の中澤惠江氏(当時)のもとに保管されてきました。平成23年1月、これらの資料を本校が受け継ぐことになりました。現在の特別支援教育の原点とも言える当時の実践研究をひもとき、将来の特別支援教育に活用していくことは、意義深いことであると考えます。

 

特別支援教育総合研究所での資料整理